「ホラショパの戯言」

■今日は何の日
3月24日

歴史上の出来事

・▼壇の浦の合戦。平家滅亡(1185),▼徳川家康が征夷大将軍に。江戸幕府開府(1603),▼エルビス・プレスリー、徴兵で軍隊に入る(1958),▼米大使ライシャワー刺傷(1964),▼中国自動車道全線開通(1983)

今日の誕生日

・▼ウィリアム・モリス(詩人・1834),▼原田泰造(タレント・1970),▼綾瀬はるか(俳優・1985)

クローズアップ!

女性のファッションモデル初登場

ショーウインドウを華麗に彩るマネキン。その最古例は、紀元前1350年代、エジプト王の墓に埋蔵された衣装作成用の木製人形といわれる。衣装着装用マネキンの始まりは14世紀のパリ。日本では、1894年(明治27)に下谷の呉服店で木くず製の和装マネキンが登場。1920年代に入り、国内でもろう製洋装マネキンの工業化が進むが、変形しやすく高価だったという。1928年3月24日、御大礼記念博覧会で高島屋が日本初の女性マネキンを登場させ、大変な評判となる。ただし、使われたのは人形ではなく本物の人間。1934年、東京・三越では輸入マネキン約20体を使っていたが、一体約1000円。背広注文服が約40円の時代だった。

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■おんがく日めくり
スペインの作曲家、エンリケ・グラナドス没(1867〜1916)
ドイツの潜水艦に撃沈された悲劇の死

 グラナドスは、アルベニスとならんでスペイン独自の音楽を確立した作曲家。バルセロナを本拠地に活躍し、自ら「アカデミア・グラナドス」という音楽学校も設立して、人々に敬愛されていました。代表作には、ピアノ組曲の「スペイン舞曲」、「ゴイェスカス(ゴヤの絵画風の情景)」などがあり、その響きはスペイン固有の民族色と、彼が心酔したショパン、シューマンのロマンティシズムを感じさせるもの。「ゴイェスカス」は、グラナドス自身によりオペラにも転作されましたが、そのことが悲劇を呼んでしまいます。

 オペラ版の「ゴイェスカス」は、アメリカのメトロポリタン歌劇場で初演されることになり、1916年1月、グラナドスは初演に立ち会うため、大西洋を越えます。初演は大成功でしたが、その帰途、乗り込んだイギリス汽船サセックス号がドイツ潜水艦によりイギリス海峡で撃沈され、妻とともに還らぬ人となってしまいました。満48歳の惜しまれる死でした。

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今日 3/24 が誕生日、没日の作曲家

 ア(ハ)ルフテル クリストバル 1930.03.24生
 グラナドス エンリケ 1916.03.24没
 シャイエ ジャック 1910.03.24生
 シャイト ザムエル 1654.03.24没
 セヴラック デオダ・ド 1921.03.24没
 諸井 三郎 1977.03.24没

、【夫婦の日本史(48)】戦友だった「維新三傑」の妻 木戸孝允と松子 渡部裕明
□【夫婦の日本史(49)】「歌」を発見した大宰府赴任 渡部裕明
■難波宮出土の柱、7世紀前半に伐採 最新手法で年代測定
あ信長、築城にも先進技術 小牧山城、石垣崩落防ぐ工夫
ア【世界史の遺風】(99)阿倍仲麻呂 唐高官となった日本人

、【夫婦の日本史(48)】戦友だった「維新三傑」の妻 木戸孝允と松子 渡部裕明
 木戸孝允(1833〜77年) 松子(1843〜86年)

 新選組に追われる日々を送る一方で、祇園や島原で遊興にふける…。私たちが、「維新の志士」から思い浮かべるイメージだ。幕末期、京都は政治都市となり、多くの武士が集まった。遊里が繁盛し、志士たちがそこで働く女性と浮名を流すことも珍しくなかった。

 今回は、その中で最も著名なカップル、木戸孝允(たかよし)(当時は桂小五郎)と三本木(さんぼんぎ)の町舞(まちまい)、幾松(いくまつ)を話題にしてみたい。三本木、と聞いてピンとくる人は、かなりの京都通である。丸太町通の北側で、鴨川と河原町通の間。江戸時代の後期には、気楽な遊里として栄えた。

 孝允は長州藩の藩医の生まれで、隣家の武士・桂家の養子となった。藩校で3歳上の吉田松陰とともに学び、頭角を現した。文久3(1863)年、強硬な尊皇攘夷(じょうい)派だった長州藩とそれを支持する公家らが京都を追われた「八月十八日の政変」のころから、京都での活動が目立つようになる。

 幾松は若狭(福井県西部)小浜藩士の娘だったとされる。しかし養子に出され、三本木で座敷に出るようになった。長州藩の京屋敷はごく近く、孝允と自然に出会ったのだろう。

 命の危険にさらされる志士たちにとって、遊里で過ごす時間は心なごむひとときだった。ここで働く女性と親しくなることは、朝廷や他藩の情報を収集する点でも意味があった。特に長州藩は豊かで金払いがよく、人気が高かった。

 孝允と幾松の仲が話題になったのは「禁門(きんもん)(蛤御門(はまぐりごもん))の変」(1864年)である。前年の政変で焦った長州藩が、勢力を回復すべく京都に兵を送ったものの、会津藩や薩摩藩の反撃にあって敗走した。

 幾松は孝允を匿(かくま)い、三条大橋のたもとで孝允に握り飯を渡したエピソードも伝わる。この尽力で孝允は京都を脱出し、出石(いずし)(兵庫県豊岡市)に潜伏することができたのだった。

 このあと、高杉晋作が長州藩政を掌握し、薩長同盟を結んで倒幕に立ち上がるのは、知られる通りである。孝允は長州の代表として、西郷隆盛、大久保利通と並ぶ「維新の三傑」となり、版籍奉還や廃藩置県に大きな役割を果たした。

 明治3(1870)年、幾松は長州藩士、岡部氏の養女として孝允の正妻に迎えられ、松子と名乗った。2人に実子はなかったが、松子は病弱な孝允を助け、木戸家を切り回した。

 同10(1877)年正月、孝允は明治天皇の行幸(ぎょうこう)に従って京都入りした。このとき、西南戦争の幕が切って落とされた。孝允が混濁する意識の中で「西郷、もう大抵にせんか」と叫んだ話は有名である。

 松子は東京から駆けつけ、最期を看取(みと)った。その後、京都に移り住んで9年後に亡くなった。2人はまさに戦友ともいうべき関係だったのだ。墓は霊山(東山区)に、寄り添うように並んでいる。

                   ◇

 ◎もっと知りたい 孝允は旅先から、松子に多くの手紙を送った。『木戸孝允文書』(東大出版会)に収録された明治10年5月4日付の最後の一通では「食事が進まず困っている」などと病状の悪化を訴え、「おまつどの 允」と結ばれている。志士と女性たちの交情は、辻ミチ子著『女たちの幕末京都』(中公新書)などに詳しい。

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□【夫婦の日本史(49)】「歌」を発見した大宰府赴任 渡部裕明
 □大伴旅人(665〜731年) 郎女(?〜728年)

  『万葉集』で夫婦愛を歌った歌人といえば、大伴旅人(たびと)を挙げねばならないだろう。彼の妻は大宰府(福岡県太宰府市)への赴任に同行して亡くなった。その死を悼んだ多くの作品は、私たちの胸を深く打つ。

 大伴氏は6世紀初頭に出た金村(かなむら)が継体天皇擁立に尽力するなど、朝廷を支えた名族だ。一時衰えたが、旅人の父・安麻呂らが「壬申の乱」(672年)で大海人皇子に味方して、勢力を盛り返した。安麻呂は大納言にまで出世し、旅人も順調に貴族の階段を上っていった。

 神亀(じんき)4(727)年、中納言だった旅人に、大宰帥(だざいのそち)の兼務命令が出された。「遠(とお)の朝廷(みかど)」と呼ばれ、大陸に向かって開かれた出先機関・大宰府の長官である。このとき旅人、63歳。

 大宰府への着任は同年暮れ。正妻の大伴郎女(いらつめ)と、54歳でようやく授かった嫡男の家持(やかもち)を伴っての赴任だったと考えられている。のち大伴氏を継ぎ、『万葉集』を編纂(へんさん)する家持は、まだ10歳の少年であった。

 実は、家持の母は特定されていない。大伴郎女でないことは研究者の共通認識で、若い側室の存在が考えられている。

 平城京から大宰府までは、瀬戸内海の船便を利用しても1カ月近くかかった。大伴郎女の出自や生年はわからないが、50歳は超えていたのだろう。長旅の疲れからか床に伏し、翌年初夏には亡くなってしまった。

 このころ、「貧窮問答歌」で知られる万葉歌人、山上憶良(おくら)が筑前守(ちくぜんのかみ)として九州に赴任していた。筑前国府は大宰府に近く、2人は度々、宴会を催し、歌を詠み合っている。「筑紫歌壇」との呼び名があるほどだ。

 「万葉歌人としての旅人は、大宰府で愛妻を亡くし、憶良と出会ったことで誕生したといっていい。平城京を離れた解放感も大きかったのでしょう」

 古代史研究家で、自らも歌を詠む和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授は言う。

 天平2(730)年10月、旅人は大納言に昇進し、都へ戻ることになった。次の一首は、その帰途で詠んだものだ。

  《妹(いも)と来(こ)し敏馬(みぬめ)の崎を

 還(かえ)るさに 独りし見れば

 涙ぐましも》(巻3)

 敏馬の崎(泊)は神戸市灘区にあった古代の港湾で、同区岩屋中町には式内社の敏馬神社が残っている。西国に向けて難波津(なにわづ)を出た船舶が、最初に停泊する場所だった。3年前、愛妻と一緒だったこの港に、いまは一人で立ち寄ったことに涙し、旅人は改めて亡妻への思いを募らせたのである。

 佐保(さほ)(奈良市法蓮(ほうれん)町)にある邸宅に帰り着いた旅人だったが、高齢も重なり体調を崩していた。翌年7月25日、死去。14歳にしかならない家持と、新興勢力の藤原氏に押されつつある大伴氏の将来に、思いを残しながらの最期であった。

                   ◇

 ◎もっと知りたい 大伴旅人については、中嶋真也著『コレクション日本歌人選 大伴旅人』(笠間書院)や、中西進編著『大伴旅人 人と作品』(おうふう)が詳しい。稲岡耕二著『山上憶良』(吉川弘文館)も、大宰府時代の旅人との交流を中心に論述されている。

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■難波宮出土の柱、7世紀前半に伐採 最新手法で年代測定
 大阪市の難波宮(なにわのみや)跡(国史跡)で10年前に出土した柱材を、年輪に含まれる酸素同位体の比率を調べる最新の年代測定法で調べたところ、7世紀前半に伐採されたことがわかった。大阪府文化財センターが24日発表した。有名な遺跡の出土品が、この手法で年代測定されたのは初めて。柱材は、孝徳天皇が645年から建設した前期難波宮のものである可能性が強まった。

 柱材は2004年、大阪府警本部の新築工事に伴う発掘調査で出土。東西に並んだ三つの柱穴のうち、二つに針葉樹とみられる柱の根元部分が残っていた。年輪が粗いため、年輪幅の変動を調べる従来の方法が使えず、飛鳥時代の前期難波宮のものか、奈良時代の726年から聖武(しょうむ)天皇が整備した後期難波宮のものかがはっきりしなかった。

 総合地球環境学研究所(地球研、京都市)は年輪に含まれる酸素同位体の比率が1年ごとにどう変化するかを調べ、標準的な変動パターンと照合して年代を割り出す測定法を研究している。この手法で2本の柱材を測定した結果、最も外側の年輪は583年と612年を示した。年輪の状態から612年の年輪は樹皮に近いとみられ、数十年分は加工の際に削られたと考え、ともに7世紀前半に伐採されたと推定した。

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あ信長、築城にも先進技術 小牧山城、石垣崩落防ぐ工夫
 国の史跡の小牧山を発掘調査している愛知県小牧市教育委員会は2月26日、山頂の主郭(天守)エリア北西で、石垣沿いに丸石を敷き詰めた遺構が見つかったと発表した。雨水による石垣の崩落を防ぐ浸透枡(ます)のような設備とみられるという。

 遺構は2段に積まれた石垣(上段は高さ2・5メートル、下段は1・5メートル)の下段に沿って、北側からなだらかに傾斜する面の途中で確認された。約70個の丸石が敷き詰められており、山頂には存在しない木曽川流域でよくある流紋岩という。

 織田信長が1563(永禄6)年に築いた小牧山城は国内で最古級の「石の城」で知られ、安土城など石垣と天守閣という近世城郭のルーツと位置づけられている。小牧市教委の小野友記子さんは「石垣が水に弱いことを踏まえ、排水処理を考えたのだろう。当時はほかに例がなく驚きだ」と話す。

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ア【世界史の遺風】(99)阿倍仲麻呂 唐高官となった日本人
 □東大名誉教授 本村凌二

 名からして誤解がありがちだが小野妹子はれっきとした男性である。7世紀初めに遣隋使として中国に派遣、「日出づる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書を提出し、煬帝(ようだい)を不快にさせたという。

 それから百年余りが過ぎ、平城京に遷都したばかりのころ、数え16歳(19歳説もある)で遣唐留学生に任命されたのが阿倍仲麻呂。翌年の遣唐使に従って唐に渡り、太学(たいがく)(古代中国の官僚養成学校)に学んだ。中国文化が身になじんだのか、刻苦勉励のかぎりを尽くし、数年後にはなんと最難関の科挙にも合格したのだ。現地でも千人に一人しか及第しないほどの苛酷な試験だから、異邦人としてはすさまじい秀才だった。

 隋より前の中国は貴族の門閥がはびこり、特権を世襲化していた。その弊害を認めた隋朝は、個人の才能に即して官吏を登用する科挙の制度を定め、それは清代まで1300年間も実施された。時代によって重視される資質が異なるが、唐では文才を重んじる傾向があった。唐代でもなお貴族社会の嗜好(しこう)に合うものが高く評価されたからだろう。

 記録上、仲麻呂が最初に任官されたのは校書とよばれる書記官であった。書物の管理や高官の文筆を補佐する役目であり、知的で格式高いので希望者も多かったらしい。このころ唐人の友人の一人は、唐名で朝衡(ちょうこう)とよばれた仲麻呂をたたえる詩を詠んでいる(上野誠『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』角川学芸出版)。

 「万国の使者たちは、わが唐の天子おわします朝廷に馳(は)せ参じて集まって来るけれど、その中でも、東隅の日本からの道は一番遠い。

 おまえさん朝衡の凛々(りり)しさといったら、それは比べるものがないほどだ。そして、君は、今、気高きわが朝の皇太子さまにもお仕えしている。

 さらには、蓬山の裏すなわち朝廷にも出入りできる身分となって、花の都・洛陽の伊水の河畔をそぞろに歩いている。

 かの後漢の伯鸞(はくらん)が、父が死んだ後、さびしさにも貧しさにも負けることなく太学に学んだように、君も太学で学んでいたね。でも、夜ともなれば故郷・日本のことを一途に思っていたっけ」

 美貌の青年が異郷の大国でかくべつに出世しながら、なお望郷の念をおさえがたくしている姿がよく浮かび上がってくる。いつのころ詠まれたかは定かでないが、仲麻呂作として伝わる名高い一首は彼の内心を映し出している。

 「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」(古今和歌集)

 その後も唐朝の官吏として昇進し、博学多識と抜きんでた才知によって人望を集めたらしい。

 官吏としての能力も文人としての才能も秀でた仲麻呂であるから、当時の名だたる文人名士からも目をかけられる。李白、王維などの著名な詩人たちも放っておかず、親密な交際を結んだという。

 16年目の33歳のとき入唐した遣唐使とともに帰国を願い出たが、許されなかった。それほど仲麻呂は人材として見込まれていたのであろう。その後、仲麻呂51歳の年に入唐した遣唐使とともに帰国することを上奏してやっと許可された。このとき日本から招待を受けていた鑑真とともに蘇州から帰国の途についたが、不運にも仲麻呂が乗った船は暴風に見舞われ、安南(ベトナム)に漂着してしまう。やっとのことで長安に戻った仲麻呂だが、またふたたび高官に任じられる宿命にあった。

 西域のソグド人をはじめ、唐代に任官して活躍した異民族出身者は少なくない。それだけ唐朝は国際色豊かな世界帝国であった。だが、日本人としてここまで朝廷のなかに入り込み、広く深い人脈をもった人物は仲麻呂よりほかに思いあたらない。

 平城京が10万人にも満たなかったころ、唐の長安はすでに100万人の住民がいた。遣唐使の使節団が、いかに国家の存亡にかかわる使命を背負って旅立っていたか。

 仲麻呂とともに唐へ渡った吉備真備(きびのまきび)も17年の留学の後に帰国し、日本の指導者教育の中核を担った。だが、仲麻呂には日本で公人として使命を果たす機会はなかった。

 地球の裏側まで十数時間もあれば往来できる現代、むしろ仲麻呂の「三笠の山」にこめられた思いは望郷の念ばかりではあるまいという気がする。

                   ◇

【プロフィル】阿倍仲麻呂

 あべの・なかまろ 奈良時代の遣唐留学生。701年ごろに生まれ、学業優秀のため16年に遣唐留学生に選ばれ、翌年に唐に渡る。現地で科挙に合格し、校書、左拾遺など官職を歴任。53年に帰国を試みるが船が難破し、55年に長安に帰着。その後は安南節度使に任命されるなど唐の高官にのぼり詰めるが、帰国はかなわず70年に死去。

                   ◇

【プロフィル】本村凌二

 もとむら・りょうじ 昭和22年、熊本県生まれ。東大大学院修了。文学博士。専門は古代ローマ史。著書に『薄闇のローマ世界』『馬の世界史』など。サントリー学芸賞、JRA馬事文化賞、地中海学会賞受賞。

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