「ホラショパの戯言」

■今日は何の日
●無重力の日(北海道上砂川町無重力科学館),●和菓子の日(全国和菓子協会),●麦とろの日(麦ごはんの会),●ケーブルテレビの日(総務省)

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、【安野光雅が描く洛中洛外】(13)銀閣寺
□【決断の日本史】(123)1159年12月9日 「平治の乱」が勃発
■【記紀万葉の風景】渡来系集団の拠点に宣化天皇の宮
あ0聾訶鼠茲療狙睇舛 「吉備大臣入唐絵巻」公開中
アB膠冉酳館権威が400年前の部品鑑定静岡・久能山
Β【転機 話しましょう】(63)作家の西村京太郎さん 求められた仕事を真剣に Б【風の間に間に】論説委員・皿木喜久 『古事記』1300年の危機感
│【本郷和人の日本史ナナメ読み】(26)戦国の「取次」は重要ポスト
■【決断の日本史】(124) 権力者に翻弄された人生 1589年12月29日
■【決断の日本史】(125)603年11月1日 秦河勝、蜂岡寺を創建

、【安野光雅が描く洛中洛外】(13)銀閣寺
 司馬(遼太郎)さんとドナルド・キーンさんとの対談で、絢爛(けんらん)たる金閣寺よりも、渋い銀閣寺の方が日本文化には似合っているのではないか、いまさら金閣寺ほどのものはできないし、真似(まね)しているようでおもしろくない、さらに発展してもともと銀は張ってなかったのではないかというような話になるくだりがある。

 銀は本物が張ってあったとしても錆(さび)が出て、野ざらしなら銀色に輝くのはつかの間の話である。銀色の絵の具でもそうだから、むしろアルミの粉を代用に使うくらいで、それでも変色はまぬかれない。つまり研究するまでもなく、銀は使ってなかったといえる。

 銀を人工によって錆びさせる。すると、渋い色になって、これ以上違った錆び方はしない。いぶし銀というのはこのことで、「あいつはいぶし銀だな」というときは「本当は中に輝くものを持っていながら、それを隠して表に出さないやつ」というほどのほめことばである。足利義政がそういう人だったら、この館にふさわしいのだが…。

 銀閣寺へ行った。見晴らしのいい丘の上まで登ったが、少し息がはずんだ。先日、心臓の定期検診にいったが、異常はなかった。(あんの みつまさ=画家)

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□【決断の日本史】(123)1159年12月9日 「平治の乱」が勃発
平清盛と“武者の世”

 東京国立博物館で開催中の「ボストン美術館展」(6月10日まで)を見に行った。お目当ては、12年ぶりに里帰りした「平治物語絵巻」である。

 平治元(1159)年12月9日深夜に勃発した「平治の乱」の院御所(三条殿)への夜討ちを描いた傑作で、教科書などでもおなじみだ。紅蓮(ぐれん)の炎を上げる建物や兵仗(へいじょう)を帯びた武士らが躍動感ある筆致で描かれている。

 平治の乱は、3年前の「保元の乱」の勝者で後白河上皇の下で実権を掌握した信西(しんぜい)入道(藤原通憲(みちのり))を排除しようと、政敵の藤原信頼(のぶより)が源義朝の力を借りて起こした反乱である。

 当時、最大の武力を抱える平清盛が、熊野参詣に出かけた留守を狙っての蜂起だった。三条殿にいた上皇を拉致、幽閉し、気配を察知して都を逃げ出した信西も宇治田原で捕らえ、その首を獄門(ごくもん)に懸けた。

 ここまでは信頼側の完勝だった。しかし1週間後、都にたどりついた清盛は信頼を油断させたうえで上皇と二条天皇を救い出した。信頼と義朝は決戦を挑んだが「六条河原の戦い」で大敗する。信頼は処刑され、義朝も家臣の裏切りで38歳の生涯を閉じた。

 このとき、13歳だった義朝の三男、頼朝も捕らえられた。しかし、清盛が継母の池禅尼(いけのぜんに)から「亡くなったわが子家盛に似ている」と助命を懇願され、伊豆への配流にとどめたことは知られる通りである。

 平治の乱により、清盛は国家的な軍事・警察権を事実上、独占することとなった。後白河上皇と二条天皇の関係は穏やかではなかったが、清盛は双方に気配りを欠かさず、実力者への階段を上っていった。

 保元・平治の乱は、それまで中、下級の貴族でしかなかった平氏を、政治の主役に押し上げた。「武者の世」をもたらしたのである。(渡部裕明)

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■【記紀万葉の風景】渡来系集団の拠点に宣化天皇の宮
 清寧天皇の後、顕宗(けんぞう)天皇、仁賢天皇と続きます。顕宗天皇と仁賢天皇については、すでに触れましたので、この連載ではより詳しく述べることもないと思います。続いて武烈天皇、継体天皇の時代になります。武烈天皇は長谷(はつせ)の列木(なみき)宮にて天下を治めますが、大王の位を継承する者がなく、応神天皇の5世の孫にあたる継体天皇を近江から呼び寄せたとあります。

 継体天皇は伊波礼(いわれ=磐余)の玉穂宮で天下を治めたと「古事記」にありますが、「日本書紀」では磐余に至るまで、樟葉(くずは)「宮で即位し、山背(やましろ)の筒城(つつき)宮・弟国(おとくに)宮を転々としています。そして、継体天皇の第1御子である安閑天皇が勾(まがり)の金箸(かなはし)宮を営みます。日本書紀には、勾の金橋をもって宮の名前とするとあります。

 勾は橿原市の曲川(まわりかわ)のこととするのが通説ですが、必ずしも断定できるものではありません。かつて金橋村という村がありましたが、この名前も明治22年につけられたもので、安閑天皇の宮が曲川あたりとする想定によるものです。日本書紀の安閑天皇紀はかなり詳細な記事をあげていますが、古事記は、宮と御陵の所在地しか書かれていません。古事記と日本書紀との間で編纂に用いられた史料の違いによるのかもしれません。

 さらに、この時代については複雑な説があります。それは、安閑天皇に続く宣化天皇、欽明天皇の即位に関するものです。つまり、継体天皇が亡くなった後に欽明天皇が即位し、一方では、安閑・宣化天皇の別の王朝が並列的に存在するという見方で、「継体・欽明朝内乱」説とよばれています。

 2つの王朝が並列したかどうかは、今後も議論が続くことになると思いますが、安閑天皇の後、継体天皇の第2皇子である宣化天皇が即位したとあります。その宮は檜●(=土へんに同の一を取る)(ひのくま)の盧入野(いおりの)宮とよばれました。檜●(=土へんに同の一を取る)は檜隈と同じ場所を示す地名とみられ、明日香村檜前(ひのくま)にあたります。

 「続日本紀」宝亀3(772)年条に、坂上苅田麻呂(8世紀後半の武将)の上表文(天皇に意見を奉る文)に「檜前忌寸(いみき)を大和国高市郡郡司(郡の役人)に任命する理由は、その先祖にあたる阿知使主(あちのおみ)が応神天皇の時代に17県の人たちを率いてやってきた。詔によって高市郡檜前村を賜り、住まわせた」とあるように渡来系集団の居住地でありました。日本書紀応神天皇20年条にも「倭漢の祖、阿知使主、その子、都加使主(つかのおみ)、ならびにその党類17県を率いてやってきた」とする伝承を記しています。

 明日香村檜前に式内社の於美阿志(おみあし)神社が鎮座しています。前掲の「アチオミ」という名の「オミ」を前にして「アチ」を音の類似から「アシ」としたと解釈されています。また、檜隈寺跡が於美阿志神社の境内にありますが、これも倭漢氏の氏寺とみなされています。あるいは、またこの地において朝鮮(韓)半島で知られる大壁と呼ばれる7世紀前半〜半ばの土壁の遺構が出土し、渡来系集団の住居であるとされました。

 このような渡来系集団の拠点に、宣化天皇が宮を営んだということをあらためて検討する必要があると思います。そして、被葬者はともかくも檜隈坂合陵、檜隈安古岡上(あこのおかのえ)陵、檜隈大内陵などの天皇陵がなぜ檜隈の地に築造されたのでしょうか。古代史の大きな見直しが迫られているかもしれません。

 (県立図書情報館長・帝塚山大特別客員教授千田稔)

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あ0聾訶鼠茲療狙睇舛 「吉備大臣入唐絵巻」公開中
 遣唐使として海を渡った吉備真備(きびのまきび、695〜775年)はいかにして中国大陸から囲碁を持ち帰り、日本へ伝えたのか――。その伝説を描いた「吉備大臣入唐(にっとう)絵巻」が東京国立博物館平成館(東京都台東区)の「ボストン美術館 日本美術の至宝」展で公開中だ。6月10日まで。

 全4巻、計25メートル近くある絵巻の第4巻(約6メートル)は囲碁の話が中心だ。絵巻は12世紀後半の作で、後白河法皇が制作させたと考えられている。

 唐人が持ちかける難題に、真備が唐で客死した遣唐使・阿倍仲麻呂の霊(幽鬼)の協力を得ながら立ち向かう物語。囲碁初心者の真備は、碁石を一つのみ込んで隠すことで勝利を手にする。下剤を飲ませて碁石を排出させようとする唐人に対し、真備は超能力を使って碁石を体内にとどめ、難を逃れる……。そんなユーモラスな物語を絵と詞書(ことばがき)(説明文)で展開している。

 真備の帰国よりも前に日本で囲碁が打たれていたというのが定説だが、様々な文化を大陸から持ち帰ったとされる真備は、囲碁も日本に伝えたといわれている。鳥取市の神社で毎年、真備の名を冠した囲碁大会が開かれているほか、岡山県倉敷市でも昨年、小学生全国大会が初めて開かれた。

 問い合わせは03・5777・8600(ハローダイヤル)。来年夏までに名古屋ボストン美術館、九州国立博物館、大阪市立美術館に巡回予定という。

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アB膠冉酳館権威が400年前の部品鑑定静岡・久能山
 四百年前に徳川家康がスペイン国王から贈られた西洋時計の学術的価値の鑑定が十六日、所蔵先の久能山東照宮(静岡市駿河区)で始まった。鑑定する英国・大英博物館の世界的権威は「部品は何一つ入れ替えていないのではないか」と印象を語り、東照宮の関係者は、四世紀の時を超えた西洋技術の粋に思いをはせている。 (広瀬和実)

 鑑定を担当するのは、同博物館の時計部門の責任者デービッド・トンプソンさん。鑑定の支援で同行するデービッド・アトキンソンさんは「十六世紀の時計について世界で最高の知識を持つ」と評している。

 トンプソンさんはこの日、時計の中身を取り出し、ぜんまいやねじなど内部構造を念入りに調査。興味津々の笑顔で「ワンダフル」と声を上げた。作業は十七日に終了する。

 日英の文化に造詣が深いアトキンソンさんによると、西洋では時計の部品を修理して長く使うため、四百年前の部品が現存する例はまずない。「部品が実物ならば、時計の歴史書を書き換える必要も出てくる」と期待を込める。

 時計は家康の死後、久能山東照宮の蔵で保管され、第二次大戦後に国の重要文化財になった。落合偉洲(ひでくに)宮司らが国宝指定の可能性を探り、大英博物館に鑑定を依頼した。

 落合宮司は「世界的にも重要な物として評価され、国宝に指定されればうれしい。後世に価値をつないでいきたい」と結果を心待ちにしている。

 田辺信宏静岡市長も久能山にトンプソンさんを訪ね「国宝指定につながる調査になるよう期待しています」と伝えた。

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Β【転機 話しましょう】(63)作家の西村京太郎さん 求められた仕事を真剣に 「売れそうなテーマを」編集者の一言で飛躍
 “鉄道ミステリー”で知られる作家の西村京太郎さん(81)は、今も月に1冊以上のペースで執筆を続けています。かつては長者番付の常連で、今年3月には著作が500冊を超えました。そんな西村さんもデビュー後、売れない時期が長かったといいます。飛躍のきっかけは、編集者の一言でした。(溝上健良)

思い切って退職

 真面目な公務員ではなかった。朝、役所へ行くのが途中で嫌になり、列車に飛び乗って旅に出ることもしばしば。もちろん無断欠勤だ。「それでも、公務員ってなかなかクビにならないんだよね」と振り返る。

 列車の旅は好きだった。年に20日の有給休暇をすべて使い、時刻表も見ずに行きあたりばったり、鈍行の夜行列車を宿代わりにして青森から鹿児島までを旅して回った。

 勤務先の人事院では、同人誌のグループに入っていたが、作家を目指していたわけではない。同期入庁で、後に朝日新聞を経て戦記作家となる永沢道雄さんの文才にはかなわないと思っていた。

 しかし、20歳代後半で転機が訪れる。昭和30年代前半、話題作を連発していた松本清張さんの小説を読み、「これくらいのものなら、自分にも書ける」と思えたのだ。高卒で役所にいても将来は高が知れている、30歳を過ぎたら転向は無理だろう−と考え、母親にも内緒で退職した。29歳の時だった。

 それからは毎日、出勤を装って図書館に通い、小説を書いた。懸賞狙いで応募を続けたが、一向に入賞しない。「1年くらいでモノになる」と踏んでいたが、1年が過ぎて退職金も底をつき、その後は運転手、探偵社社員など職を転々としながら書き続けた。

 結果は出た。オール読物推理小説新人賞を受賞。ただ、デビュー時には32歳になっていた。

いつも初版止まり

 とはいえ執筆の依頼は少なく、しばらくは「懸賞荒らし」をして食いつないだ。総理府(当時)が懸賞小説を募集した時には、審査員の作品を徹底研究し、審査員好みの原稿を書き上げて見事に賞金500万円を獲得し、経済的に一息ついた。徳島県の地方紙に1年間、時代小説を連載したこともあった。

 デビューからしばらくの間は、社会派の小説を中心に自分の好きなテーマで書いていた。しかし、いつも初版止まり。あるとき編集者に「売れそうな作品のテーマを出してください。こちらで判断しますから」と言われてしまった。

 思い出したのは公務員時代、通勤途中の東京駅で見たブルートレイン(寝台特急)にカメラを持って群がる小中学生たち。直感的に「ブルートレインでいけるのではないか」と提案したところ、編集者は即決で採用した。

 取材のため、東京から九州に向かう寝台特急「はやぶさ」に乗った。ところが同行の編集者は早々に酒を飲んで眠ってしまう。仕方なく1人で車内を回り、車掌を質問攻めし、通過駅のホームを観察したりと、一睡もせずに取材した。

 出版された「寝台特急(ブルートレイン)殺人事件」は売れに売れた。「その時、『増刷』と言われたけど、意味が分からなくて。でも何度も『また増刷です』と出版社から電話があり、だんだんうれしくなってきた」。ようやく48歳にして脚光を浴びた。

 この昭和53年は、SLブームが過ぎ去って“ブルトレブーム”が到来していた。その時流に見事に乗った。時代と自身の経験がシンクロ(同期)した結果の大ヒット。作品化が早すぎても遅すぎても、これほどの成功は望めなかったはずだ。それに、好きなものを封印し、素直に周囲の声に従ったことが、運を開いたともいえるだろう。

旅は続く

 100万部を突破した同作をきっかけに、西村さんには「十津川警部が登場するトラベルミステリー」の印象が定着していくが「本当は3作くらいで打ち止めにするつもりだったが、売れすぎたので他のものが書けなくなっちゃった」と明かす。

 実は江戸時代を扱った時代小説を書きたいと長年、構想を温めている。ただ、どの出版社の編集者に話を切り出しても「いいですねえ。でも、それは他の社で…」と言われてしまう。「売れないころに本を出してもらっている恩義があるから、編集者の要望を断れない」と笑う。

 読者には推理小説ファンと鉄道ファンとがいるが、鉄道ファンは鉄道の細部まで気にして「実際と違う」と投書してくるので、うかつなことは書けない。なじみのなかった時刻表も熟読するようになった。今でも現地取材を欠かさないという。十津川警部の旅は、まだまだ終わりそうにない。

−−80歳を過ぎた今でも原稿を量産できる秘訣(ひけつ)は?

 「1日に原稿用紙20枚くらいは書くんだ、というクセをつけること。さぼりたいけれど、さぼったら元に戻すのは大変です」

 −−「うちの地域の鉄道を舞台に」といった要望はありますか

 「町おこしで町や村からの要望はときどきあり、なるべく応えるようにしています。頑張っている地方や、第三セクターの鉄道などは応援したいですね」

 −−好きな列車は?

 「地元の人が乗ってくるローカル線の列車が好き。ボックス席がいいですね。京都に住んでいたころは、北陸へ向かう特急『雷鳥』によく乗り、好きでした。最近は名前がカタカナになってしまいましたが、元通りの『雷鳥』じゃダメなんですかね?」

 −−作家の山村美紗さんとの長年の交流を描いた小説『女流作家』『華の棺』に書かれていることは?

 「だいたい本当の話です」

〈にしむら・きょうたろう〉昭和5年、東京生まれ。本名・矢島喜八郎。都立電機工業学校を卒業後、人事院に就職した。35年に退職、小説を書き始める。38年、「歪(ゆが)んだ朝」でオール読物推理小説新人賞を受賞し、40年には「天使の傷痕(しょうこん)」で江戸川乱歩賞を受賞。53年発表の「寝台特急殺人事件」がベストセラーに。以降、トラベルミステリーの第一人者として活躍している。平成17年、日本ミステリー文学大賞を受賞。今年4月には創作のノウハウを公開した「十津川警部とたどる時刻表の旅」を刊行した。

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Б【風の間に間に】論説委員・皿木喜久 『古事記』1300年の危機感
 戦前の教科書に『松阪の一夜』という有名な話があった。今、「小学国語読本巻十一」の復刻版で読むことができる。

 伊勢国(現三重県)松阪の若き学徒だった本居宣長はある日、この地を万葉集研究の泰斗(たいと)、賀茂真淵が訪れていることを知る。「どうかしてお目にかかりたいもの」と捜し回った末、数日後に旅館で対面が実現した。ほの暗い行灯(あんどん)の下、2人は夜遅くまで話し込む。

 「古事記を研究したい」と語る宣長に対し真淵はこう答えた。

 「私も実は古事記を研究したい考えはあったが、それには万葉集を調べることが大切だと思い、取りかかったところ、いつの間にか年をとってしまった。あなたはまだ若いからしっかり努力したら大成することができる。まず土台を作り、一歩一歩高く登ることだ」

 真淵の励ましに感激した宣長はその後、文通でも教えをこいながら35年後、ついに『古事記伝』という不滅の大作を完成させた。

 三重県出身の歌人、佐佐木信綱が松阪市に伝わる話や、宣長の『玉勝間』の挿話を基に書いた『松坂の一夜』が原作で、話は宝暦13(1763)年5月のことである。

 話には2人の学問に対する真摯(しんし)な態度、謙虚さなど子供たちに教えたい「徳」が含まれている。だがそれよりも伝えたかったのは『古事記』の大切さのような気がする。

 今から1300年前の712年、太安萬侶(おおのやすまろ)が編纂(へんさん)したという『古事記』は、神話と古代天皇の事跡を記した日本最古の史書である。だが宣長が生きた江戸中期には、その存在すら忘れ去られようとしていた。

 日本の正史とされたのは『日本書紀』であり、『古事記』ではなかった。その上、『日本書紀』が古い伝承を漢文に「翻訳」して書かれているのに対し『古事記』は、漢字で表した古代の日本語、古語を交えた和漢混淆(こんこう)文で記されている。

 ところが編纂から1千年もたった宣長の時代には、そうした古語はほとんど使われない。どう読むのか、どんな意味かも分からなくなっていた。それを、血のでるような努力で解読し、綿密な注釈を加えたのが全44巻の古事記伝だった。

 つまり宣長がいなければ、日本人はまともに『古事記』を読めなかった。「松阪の一夜」は「古事記復活の一夜」だったのだ。

 古代文学者の工藤隆氏は『古事記誕生』の中で『古事記』は「時代に遅れた書物」だという。当時の先進国家「唐」の文化を積極的に取り入れた「近代化」の時代に「古(いにしえ)」の伝承に固執したという意味である。

 宣長も学問といえば外来の儒学を指すような時代に生きていた。その中で漢意(からごころ)に翻訳された『日本書紀』ではなく『古事記』を読まなくては古代日本人の心、物の見方や価値観は分からないと考えた。古来の文化を失えば、日本が日本でなくなるとの危機感を持っていたのだ。

 明治維新により、今度は西洋の文化を取り入れた明治・大正期に、教科書が『古事記』の大切さを教えようとしたのも同じ理由だった。

 その危機感は今も生きている。ようやく憲法を変えようという動きが盛り上がってきた背景には、米国流の個人主義が基調にある現憲法の中に日本古来の価値観をよみがえらせたいとの意図もあるからだ。そんな時に『古事記』誕生1300年を迎えた意義は大きい。

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│【本郷和人の日本史ナナメ読み】(26)戦国の「取次」は重要ポスト
 豊臣秀吉による天下統一より以前、日本は「都」ともいわれる地域、具体的には畿内・中部・中国・四国地方と、「鄙(ひな)」ともいわれる地域、東北・関東・九州地方とに分けて考えることができる。これが前々回までのお話でした。

 そこで便宜的に、前者を日本A、後者を日本Bと呼びました。それから、権力体(1)と権力体(2)とが交渉するときに、「申次(もうしつぎ)」と呼ばれる存在が仲立ちに立つ。たとえば鎌倉時代の朝廷と幕府でしたら、おおよそは上級貴族の西園寺家が両者を「申し次ぐ」。これが前回のお話です。

 室町時代、幕府は全国の守護大名の話し合いによって政治を行っていた、といわれます。これは実は、正確ではありません。日本Aの大名(読みは、だいみょう、ではなく、だいめい、が正しいらしい。大明という当て字の使用例があるので)には在京が義務づけられ、その代わり、幕政に関与する権利が与えられた。日本Bの大名は在京しないでよい。当然、幕府の会議には出席できませんので、幕政にも参加できない。

 日本Bの大名が幕府とやり取りをするときには、申次が設けられます。足利義持(4代将軍)・義教(6代)の政治顧問、醍醐寺の三宝院満済(まんさい)の日記を見ると、篠川(ささがわ)御所(東北地方の統治のため、福島県郡山市に置かれた)の足利満直を担当する申次は細川家。日本Aと日本Bの境にいて、上京を免じられていた山口の大内家の申次は山名家。同じように上京免除の駿河の今川家で家督争いが起きたときには、細川持之(もちゆき)が弥五郎を、山名時煕(ときひろ)が千代秋丸を推して対立。どちらかが家督を継げば、推した方が正式な今川家申次になったのでしょう(実際には2人とも家督を継げなかった)。細川家も山名家も、積極的に申次を務めることで、政治的な発言力を強化していったと考えられます。

 織豊(しょくほう)政権でも、申次が置かれました。この時代には取次(とりつぎ)、という言葉の方がよく用いられています。織田家の場合だと、中国の毛利家は羽柴秀吉、四国の長宗我部(ちょうそかべ)家は明智光秀というように、戦国大名ごとに取次役が決まっていました。秀吉の時代になると、日本Aと日本Bというより、譜代と外様という概念を用いた方が理解しやすいかもしれません。外様勢力が都の秀吉と交渉をもとうとするときには、特定の譜代の大名が取次を務めました。有名な例ですが、島津家の攻勢に耐えきれなくなった大友宗麟(そうりん)が秀吉に庇護(ひご)を求めたとき、弟の豊臣秀長は「正式なことは私が、内々のことは千利休が」取り次ぎますのでご安心あれ、と丁寧に伝えたといいます。

 山本博文氏の『島津義弘の賭け』(中公文庫)によると、宗麟を追いつめた島津家は、秀吉に降伏後、石田三成を取次として頼りました。三成は豊臣大名としての島津家に情報を与え、教育を施し、時に叱責します。国元にいる総帥の島津義久には、それがうるさく感じられる。在京して豊臣政権と交渉している弟の義弘にしてみると、全国を統一した政権がいかに強力で過酷かよく分かる。それで三成の忠告を入れて、何とか島津を守ろうと奔走するのです。取次の三成は島津領の検地も行い、島津家の政治に深く関わっています。義弘が関ケ原で三成に味方したのには、そうした事情が根底にあったのです。

                   ◇

 月1回掲載します。

                   ◇

 ■細川持之(1400〜42年)

 兄の持元のあとを受けて、細川一門の当主となる。6代将軍足利義教のもとで、管領を務めた。義教は有力な守護家に次々と弾圧を加えたが、その中で、よく細川家を守った。赤松家と細川家はかねてから仲が良かったので、赤松満祐が義教を暗殺した際(嘉吉の乱)には、黒幕ではないか、と疑われた。応仁の乱の東軍総帥、勝元の父である。

                   ◇

【プロフィル】本郷和人

 ほんごう・かずと 東大史料編纂所准教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。専門は日本中世史。

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■【決断の日本史】(124) 権力者に翻弄された人生 1589年12月29日
智仁親王、秀吉の猶子解かれる

 圧倒的な権力に、人生を翻弄されてしまう人物がいる。豊臣秀吉と八条宮智仁(としひと)親王(1579〜1629年)の関係が、まさにそうであった。

 智仁親王は正親町(おおぎまち)天皇の嫡男(誠仁(さねひと)親王)の第6皇子で、後陽成(ごようぜい)天皇は8歳違いの同母兄である。

 運命変転の第一歩は天正16(1588)年、実子のなかった秀吉の猶子(ゆうし)(養子)とされたことである。優秀な親王を身内に囲い込み、関白を譲って朝廷を支配するためだった。

 しかし、皮肉にも翌天正17(1589)年5月、秀吉と淀殿の間に長男の鶴松が誕生した(のち死亡)。跡継ぎができれば、たとえ猶子でも邪魔になる。秀吉は同年12月29日、猶子関係を解除し、翌年に八条宮家を創設させて親王を当主とした。

 親王は、あきれ果てたのではあるまいか。しかし聡明(そうめい)だったから、和歌など古典文芸に打ち込むことで鬱屈を忘れた。慶長5(1600)年には、当代最高の歌学者でもあった細川幽斎(ゆうさい)から「古今伝授(こきんでんじゅ)」を授かっている。

 「関ケ原の戦い」が終わったこの年、後陽成天皇は智仁親王に譲位したいと徳川家康に打診した。しかし、家康は親王がかつて秀吉の猶子だったことを理由に首を縦に振らなかった。

 2度にわたるつらい仕打ちに、親王は耐えた。下桂(しもかつら)村(京都市西京区)にあった領地に、「日本美の粋」とされる桂離宮を造営し始めた。事業は息子の智忠(としただ)親王に受け継がれ完成する。

 歴史に残るもうひとつの偉業は寛永2(1625)年、古今伝授を甥(おい)の後水尾天皇に授けたことである。以降、古今伝授は宮中で引き継がれることとなった(御所伝授)。

 寛永6年5月29日、智仁親王は51歳で亡くなった。苦難に見舞われても、自らの生きる道を見つけ続けた前向きな生涯は素晴らしい。(渡部裕明)

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■【決断の日本史】(125)603年11月1日 秦河勝、蜂岡寺を創建
聖徳太子の新羅仏いまに

 秦河勝(はだの・かわかつ)は約1400年も昔の人物だが、京都ではいまも特別な愛着をもって語られている。聖徳太子から弥勒(みろく)菩薩像を下賜(かし)され、太秦の広隆寺を創建したからである。

 推古天皇の11(603)年11月1日、聖徳太子は小墾田宮(おはりだのみや)(奈良県明日香村)で、群臣を前に「私の持っているこの尊い仏像を祀(まつ)る者はいないか?」と問いかけた。

 そのとき、河勝が進み出て仏像をもらい受け、蜂岡寺(はちおかでら)を建てたと『日本書紀』は記す。広隆寺は蜂岡寺の後身で、国宝第1号の「弥勒菩薩半跏(はんか)像」こそ、この像とされている。

 河勝はなぜ、仏像を引き受けたのだろう。従来は聖徳太子と河勝の間の、深い信頼関係だけで説明されてきた。しかし昨年末、伝記『秦河勝』(ミネルヴァ書房)を執筆した井上満郎・京都市歴史資料館長(日本古代史)は次のように言う。

 「秦氏は5世紀後半、土木や織物などの先進技術を伝えた渡来氏族です。出身地は朝鮮半島東部の新羅だったと私は考えています。問題の像が新羅仏だったので、もらい受けた。河勝は新羅仏教の日本側の受け手だったのではないでしょうか」

 秦氏の一族は京都盆地にやってきて、西部を南北に流れる大堰川(おおいがわ)に堰(せき)を築いた。嵐山・渡月橋(とげつきょう)のあるあたりである。ここから引いた水で、原野だった嵯峨野一帯を耕地に変えた。

 こうした技術が、のちの桓武天皇による平安遷都にもつながった。「平安京の大内裏は河勝の邸宅跡に建てられた」との伝承も生まれたのである。

 河勝は推古18(610)年、新羅使を接遇する役目を果たした。また皇極天皇3(644)年には、駿河地方に派遣され、邪教を広めていた豪族を討ち果たしている。長命で、国家に功の多い生涯であった。(渡部裕明)

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