私のふるさと越前武生!

 
1 古代から平安時代   
福井県の越前武生が私の生まれ故郷である。
この地が歴史に登場するのは、 西暦507年に、当時越の国(越前・越中・越後)と呼ばれていた敦賀から新潟にあたる一帯の玄関口に当たる越前を支配していた男大迹王 (おほどのおう)が第26代継体天皇として即位されたときからであろうか。
昨年は、即位1500年の記念行事がこの辺の 関連地区でいろいろと行われた。私がこのことを知った のは、昨年義母の白寿の誕生会を近辺の温泉宿で行なった帰りにたまたま立ち寄った大滝神社が継体天皇ゆかりの神社であったからである。同時に大王が越前和紙の振興の 基礎造りをされたこともしった。
しかし、この伝統産業の越前和紙が今大変なことにな っている。ご存知のように株券の電子化が進められており、越前和紙の用途の8割を占めていた株券への需要が全く無くなってしまったのである。
  越前武生は、平安初期から明治のはじめまで府中と呼ばれ越前の経済・文化の中心 地であった。これはこの地に国分寺や御霊神社が現存するのでも想像される。
かの有名な紫式部は、父藤原為時が府中国守に任ぜられた時、みやこを離れ、府中で くらしている。二年後には結婚のためにみやこにもどるのであるが、式部にとっては生涯 でただ一度のみやこ以外での生活であり、のちの「源氏物語」の執筆に際しての貴重な 体験であったとおもわれる。
町外れには式部公園がある。式部の彫像があり、亡き母の 最後の写真が式部像に寄り添ったものであったことが思い出される。 
2 鎌倉時代から江戸時代  
生まれた家の近くに正覚寺という大きな浄土宗寺院がある。小学生のころには境内で、毎日のように草野球をやっていたところであるが、ここが南北朝60年の始まりとなった激戦場のひとつの善光寺城跡である。
南朝の新田義貞は日野川及び善光寺城の戦いに勝利し、敗走した北朝軍を福井の足羽城に追い詰めるが、斥候中に流れ矢にあたりあえなく討ち死にする。大将を失って形勢は逆転、善光寺城・金ガ崎城も落城、 南朝軍は壊滅するのである。
新田義貞の戦死したところに、新田塚と神社があり丁度その前に新田塚自動車教習場が ある。私は昭和35年に、家内は37年にここで免許を取得したのであるが、現在の自分 の境遇をおもうと、家内があの時に免許を取っておいてくれてほんとによかったと感謝している。
戦国時代は、朝倉氏が越前一帯を支配するが、姉川の決戦に破れ滅亡したあとは、前田 利家が府中の大名となり、関が原以後は福井を支配した結城氏の家臣 本多氏が府中の 領主となった。
江戸時代を通して本多家が日野川の治水・町内用水の整備やうち刃物・織物等の産業育成を行い現在の武生の基盤を築いた。
私のかよった武生西小学校の隣に竜泉寺という本多家の菩提寺がある。毎年6月1日は この寺の祭礼の日で、近在の親戚が集まってくる。大人は酒宴が目的だが我々子供は長い参道や広い境内にならぶ屋台のおもちゃやたべもの店を、ときには大神楽や見世物小屋を 見て回るのがたのしみだった。4月から9月までは、市内のどこかで毎週のようにこのような祭礼が続きよく友達と出かけたものだったが、昨今ではこのような風景はめったに見られなくなってしまった。 
3 明治以降  
越前府中は、明治2年に武生と地名を変更した。出典は平安時代の催馬楽(さいばら)によるということらしい。 明治22年に武生町となり、昭和23年に武生市となった。当時人口3万5千で7千戸 であったから平均家族数は5人であったが、現在では半分ほどになっているのではないかとおもわれる。
私は、昭和11年に武生町に生まれた。私の子供の頃の町は、じつに綺麗で風情のある町であった。中心部を南北に走る国道8号線は3等分され左右の上り線下り線をはさんで 中央に黒土のままの幅7〜8メーターの安全地帯があり、その又丁度真ん中に幅1メー ター程度の石積みの疎水が流れていた。黒土の部分には松が植えられており、これが延々3キロほども続くのである。
水は今庄の奥にある夜叉が池を水源とする日野川の清流から取り込んだ水で小魚やごりの姿をよく見かけた。また流れの中ほどに「かなどうろう」という 青銅製の大きなとうろうがあった。私の4〜5歳の頃は、夜になると蝋燭の灯がいれられ周囲の松並木や川の流れを浮かびあがらせるのであるが、これが実に幻想的な光景であり母親に連れられてよく見物にいったものである。
ところが、残念ながら今は川のながれも松並木も跡形も無く消えうせてすべてがコンクリートに覆われてしまった。国道は戦後すぐに郊外に移されているので今更道路拡張の 必要は無いと思われるのだが?
このようなわけで、町の風景は一変してしまったが、近くにある日野山の形は昔のままで越前 富士と呼ばれるとおりの均整のとれた姿をみせてくれている。「ふるさとの山はありがたきかな!」である。 生家の2階の窓からは東南の方角にこのきれいな姿が良く見えた。朝な夕なに親しんだ あの姿はいまもまぶたにはっきり焼きついている。
8月の日野神社の祭礼の夜は 10時頃に近在の若者が一斉に頂上をめざす。頂上は900メーター足らずの高さであるが、加賀の白山・南アルプス連峰が一望できるのである。しかし何といっても圧巻は紺碧の日本海が手の届きそうなところに見えることである。まさに、ひばりの唄った  「晴れた日は 晴れた日は 船が行く 日本海  海の色は碧(あお)く ああ 夢はとおく」 の光景そのままだ。私はもうとても頂上にたてそうもないが、このような自然や 風習はいつまでものこしておいてほしいものである。

慣れ親しんだ武生の地名もいつのまにか消滅し今は越前市となってしまった。住民はそれほど感じないのかもしれないが、離れている者にとっては寂しいものである。家内は今でも手紙の宛名は武生で通している。やはり「ふるさとは遠きにありて思うもの!」なのであろうか?

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