ジーンズで思い出す事!

「青は藍より出でて藍より青し」

この言葉は、氷は水よりいでて水よりもさむしとの対句によって、しゅつらんのほまれすなわち弟子が師匠をこえる意味に使われているのだが、私にとってこの藍は 特別のおもいのある植物である。
染物に興味をお持ちの方はご存知のことであるが、この藍は世界中で古くから木綿や麻の染色に使われてきた。藍を使って元の藍の色よりもはるかに深みのある濃い青色を出すのである。
日本にも藍の染色法は奈良時代にすでに伝えられており青色の染料として珍重された。江戸時代になると、かすりやしぼりにとその需要はますます増大し日本各地で栽培されるようになった。
特に四国の阿波(徳島)は最大の産地であった。吉野川河畔の肥沃な土地と温暖な気候が藍の栽培に適していたためで、阿波藩はこの藍の葉っぱや茎を熟成発酵させた藍玉(すくも)の 全国販売によって莫大な利益をあげた。
吉川英治の「鳴戸秘帳」は、この裕福な藩に幕府が隠密を送り込む話である。また、当時より「すくも」の販売を任されていた数軒の商家が現在でも大きな染料・化学薬品の販売商社として活躍しているが、その礎は藍によって築かれたものである。

欧米では、デニム織物の青色のたて糸用染料として使用されてきた。綾織のためたて糸がより多くおもてにでる、いわゆるおもてが青く裏側が白っぽいブルー・ジーンズがこれである。藍の効用のひとつである虫よけや毒蛇よけも手伝って作業衣やカーボイ服として需要が増加していった。
しかし、藍は所詮天然植物でありしかも含有される染料成分は極めて微量である。とても大量の需要には応じられなかった。しかもその殆どがインドからの輸入ということもあって各国で合成法が研究された。
19世紀末になってようやくドイツの科学者がその構造式をあきらかにし、製造法も開発された。合成された藍の染料成分は、インジゴとよばれる建染染料の一種である。この種類の染料は水にとけないが、アルカリ性で還元されると水に溶け繊維に染めつく、これを空気中や水中の酸素で酸化すれば、元の水に溶けない染料に戻るのである。一般には、 この操作を何回も繰り返すことにより濃紺の色調を出している。

20世紀にはいると、ドイツでは工業的製造法が確立しまたたくまに天然インジゴは 駆逐された。特にドイツの軍服は青色でその染色にインジゴが使用されたためにこの製造会社は大いに潤った。(ちなみにフランスの軍服は赤色で茜の根の成分アリザリンレッドが用いられた)  当時の製造法は当然ながらバッチ製法であり生産量を上げるには人海戦術をとらざるを得なかったが、現在は連続製法が出来上がっており10分の1の人員で10倍の 生産を誇っている。工場の4階で原料を投入すれば、1階で青い染料の粉となって出てくる仕組みが出来上がっているのである。

さて、ジーンズ文化は戦後アメリカの進駐軍と共に日本に入ってきたのであるが所詮 輸入品だけでは一般民衆には高価であり、ブームを生むには国産化が必要であった。 戦後30年を経て、ようやく岡山広島の既製服産地にこの機運がたかまり連続的にたて糸をロープ状で染色するロープ染色機が数か所の染工場で独自に開発された。ボトルネックが解決し大量生産の準備は整ったのである。当時インジゴの国内生産も既に始められておりこれで綿花の輸入を除けばすべてが国産化されたわけである。

当初はべーシック・ジーンズによるスタートであったが、つぎつぎに新しい加工法が 開発されいまでは世界各国に織物や製品として盛んに輸出されるまでになった。

さて、ここまでは藍とインジゴとジーンズの話でしたが、ここからは、私とインジゴとの関わりに話はうつります。
 私は昭和34年に染色加工技術者を目指して社会に第一歩を踏み出した。当時の輸出の花形商品はダントツで繊維製品であって、いまではとても想像出来ない話であるが、 自動車はまだ輸出できる商品ではなかった。
業界は合繊ブームで潤い、ナイロン・テトロン・アクリルの新しい染色加工法がつぎつぎに開発され、その発展を身をもって体験することが出来た。しかし、木綿やウール等の天然繊維に対しては甚だ関心の薄い地区であった為か残念な事に体験する機会は殆どなかった。
 ところが偶然の転職によってこのチャンスが訪れた。新しい仕事先は某化学品メーカーの染料部門の技術サービス部で、任された地区は大阪及び岡山・広島・四国であった。この地区は木綿織物の産地であり当然木綿用染料の一大消費地区でもある。現在実際に使用されている合成染料は何千品目にものぼるが、そのなかでダントツに大量消費されるのがインジゴである。世界で年間 一万トン以上が生産されその9割はブルージーンズになっているのではないかと思われる。日本での消費は500トン程度であるが、 使われる量のわりにはその染色法ははなはだ前時代的であり、染浴の管理はすべて熟練 した作業員の経験と勘が頼りである。
私は以前からこの染色槽の自動測定および自動 供給による管理システムの導入に興味を持っていたので、色ぶれの発生に悩まされている工場のオーナーにアイディアを説明し試作機設置の了解を得た。試作機による現場試験は 数ヵ月におよび関係先の皆様には多大のご迷惑をかけたが予期せぬトラブルの発生により試作機の開発は断念せざるをえなくなってしまった。ただ、測定法のアイディアは、いかされて手動ではあるが染浴濃度が測定され定量的な供給が可能となったのはせめてもの救いであった。
あれから十数年が過ぎたが今でもジーンズの話を耳にするとこの事が思い出されて申し訳ない気持ちでいっぱいになるのである。業界のスムースな発展のためにもこの問題の一日も早い解決を切望している。

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